小山田圭吾氏が過去の「いじめ」が原因で、東京五輪開会式音楽担当を辞退した。
これが世間では大騒動になっている。
この問題に対して肯定派と否定派。
肯定派については、大体以下の内容だ。
・過去の過ちに対してここまでする必要があるのか?
・人は過ちを犯すもの。何十年も前のことを掘り起こす必要がどこにあるのか?
・既に謝罪している。許すことが必要。このような世知辛い世の中で良いのか。
・死ぬまで誰かを許さない社会は違う。正義の暴走は不幸を生む
・昔は許容範囲内だった。時代がそうさせた
否定の内容は以下のようだ。
・なぜ組織委員会はこのような人物を採用したのか?組織委員会の責任だ
・これはいじめではなく、暴行や虐待だ。
・成人してからもこの件について(雑誌で)武勇伝のごとく語っていた。反省の色なし
・この人が書いた曲は聞きたくない。
子供の「いじめ」は誰しもが加害者や被害者になりうる。
それだけ子供は未成熟な存在だから。平気で人を傷つけたりする。過去の過ちは大なり小なり誰にでもあるのではないだろうか。
この件については正直やり過ぎな気がしてならない。
これで小山田氏は今後仕事がやりにくくなるのは間違いない。開き直れば別な意味で仕事はあるかもしれないが。
今回問題になったのは、成人してからも武勇伝のごとく過去の悪事を話したからだ。
それが更生していないと捉えられた。今頃になって謝罪してももう遅いと。
小山田氏と同様に過去の件が明るみにでて、絵本作家、のぶみ氏も出演辞退となった。
のぶみ氏は東京五輪のパラリンピック文化プログラムへの出演予定だった。
このかたも過去に行ったいじめなどについて悪びれることなく自伝などでつづっていた。
これにSNS上で批判の声が上がっており、辞退へと繋がった。
なぜ、昔の悪事を自慢気に話す気になれるのか?
もうそういう時代ではないということだ。
少し前は「やんちゃ」がモテた。ちょいワルおやじという言葉も流行った。
ヤンキーの武勇伝も自慢話になった。そういう時代も確かにあった。
しかし今はネットの時代。
有名人でなくとも、雑誌、ブログ、ツイッター、掲示板などで話したり書いたりすれば、それはデジタルタトゥーとして残ってしまう。
仲間内のSNSでも同様だ。誰にも漏れないだろうと思っていても、どこかに穴が空いている。
そうならないためには、余計なことは何も言わないのが一番だ。過去の悪事は絶対に口外してはならない。
過去の自分に反省し懺悔したいこともある。自分自身の中で一生罪を背負って生きなければならないのだ。